意気込みと“死”についての話
最近、何故か“死”のことばかりを良く考える。
何故かは分からない。それにブログにまで“死”の事を書き残すのはどうかと思う。でもそれこそ何となく残しておこうと思ったり。
自分の最期ではなくて、身の回りの人の最期を良く考える。
“何気なく親も友達は明日も絶対に生きている”と自分では思ってる。
“親もあと10年は絶対に死なない”と勝手に思い込んでいる。
でも最近その考えは後々後悔するなぁって思うようになった。でも最悪の展開を考えることは自分の頭がしない。
親が今すぐ最期を迎えてしまった場合、自分は絶対に後悔する。
分かっているし、やりたい事も沢山ある。
毎日話せることが、会えることが当たり前だと思って今も生きてるけど最近少し親に助けられた事があった。そういう時に親に改めて感謝した。
不運な事がない限り、先に親を見送らなければいけない、絶対に。それが出来るかと言われたら今の私には出来ない。
親元を離れて生活するようになって親との距離が近くなったとも感じている。会えない時間が増えたと同時に色々やってくれていた事を思い出して感謝しているから。
これをやってあげたい。一緒にここに行きたい。
そんな思いが最近出てくるようになった。
今もだけど私は自分の顔がうつっている写真を撮られるのも撮るのも苦手。
昔からそうだから、学生の頃の私の写真とか余りおやは保存してない。
それと同時に私も写真をあまり撮らない。(ご飯とか珍しいものは取るけど、家族風景とか当たり前の毎日を保存しようと思わなかったから。)
撮らなかった事で後悔したことは愛犬の写真を余り残していないこと。本当に後悔してる。
だから多分私の親も私の写真が欲しいんじゃないかなあ、とは思うし、最近は私も思い出に撮ってもいいかな。とも思ってる。
でもそれを言い出すのが恥ずかしいし、以前親にお巫山戯で「プリクラとろうよ〜」って言われた時も凄い断った。
今は形に残る何かがほしい。プリクラも撮りたいなあ。でも恥ずかしいから言えないなあ。って気持ち。
まぁ、そんなこんなで今親が最期を迎えたら心残りしかないってこと。
最後が明日なら間に合わない。でも10年後なら間に合う、20年後ならもっと間に合う。
やりたい事があるなら恥ずかしがらずにやった方がいいよね〜。見送った後に1つでもやり残した事が少ない人生にしたい。
何したい?写真撮りたい、とりあえず私もオバサンになるので若いうちの盛れる時にプリクラは取っときたいよね。あと小さいときに家族旅行に行った事がないから1回は行きたいかな〜。方向音痴直さないと無理だけど。あとハリネズミカフェ、豆柴カフェ。誕生日とか母の日父の日に学生の頃なーんにもして来なかったからそのぶん今年からは色々やりたいしなー。いっぱいあるなー。
頑張ろう私。
こういうの今まで残そうと思ったことはあるけど残さなかった理由は最大のフラグにならないか怖かったからです。でも今は自分の中の区切りとして残す事にしました。頼むこれを投稿した後に何かあったら笑えない本当に。たのむぞ。